仏法を学ぶとは何でしょうか。仏法はいうまでもなく宗教的規範といえます。それは、仏教の教えから真理を認識し人生を明瞭に、幸福にすることに違いありません。ここにいう真理とは、宙の真理を認識することで、例えば、この世界はどのようにつくられたのか、人生の本質はなにか、人の誕生と死後の世界の探求、世界の還滅などの究明かも知れません。すなはち、成(成立)・住(継続)・壊(破壊)・空(無)や生・老・病・死、五悪道(地獄・餓鬼・畜生・天・人)、六道(地獄・餓鬼・畜生・天・人・修羅)などを知りたいと思うことに繋がります。

 仏法を学ばなければ、自我を中心に生活してしまい虚妄な自我に惑わされて執着、貪りばかりになり自我を超越することができません。また仏法を学ばなければ、人格を養い、昇華拡大させ人格の完成はあり得ません。そして最後に、仏法を学ぶことにより真理の快楽を享受することができます。それはキリストが博愛を仏教が慈悲を説くように社会に慈悲をのこすことができるはずです。意外に知られていないことは、人と仏は本性上において平等です。生仏平等、男女平等、智愚平等、衆生平等であり民主平等思想が仏法から学びとることもできます。

 仏法を学ぶうえで大切なことは、疑を重視することです。ちいさな疑問はちいさな悟りを、おおきな疑問はおおきな悟りを、疑なくして悟りはあり得ません。仏法を学ぶことは問題を掘り起こすことから始め悟りすなはち真理の探究に他なりません。仏道においていうところの菩提心とはまさに真理の探究なのです。それは私たち衆生の幸福をみいだすものではないでしょうか。

 それでは、幸福を得るためには具体的にどうすればよいかについて米国カリフォルニア大学リバーサイド校の心理学教授であるソニア・リュボミアスキー氏は「幸福につながるポジティブな行動を頻繁にとって、習慣化することが大切だ。その行動を実践していくうちに、幸福度が大きく変化し、驚くほど自分が自由になっていることがわかる」といっています。社会生活における法の役割である規範の習慣化、定着化と同じです。私たちは日々の生活の中で法を意識せずに行動しているのと同様に何度も繰り返すうちに新しい振る舞いや行動が「習慣」になると、努力はさほど必要ではなくなります。文字通り習慣的と呼ばれる行動ですから、実行するための努力も必要ありませんし意図的な行為でもありません。

「習慣」は、行動を繰り返すことから生まれます。ソニア・リュボミアスキー氏の理論によれば、ある行動を繰り返すたびに、その「行動」と、それが起きる「状況」との間に記憶のなかで関連性が育っていくものといえるでしょう。仏法を学ぶことによって私たちは習慣的な行動を可能ならしめます。脳科学者の中野信子氏も、「幸福になる運は偶然ではない。運
は100%自分次第。強運は行動の結果」(「脳科学が突きとめた運のいい人」サンマーク出版)と指摘しています。

 人間中心の考え方にそまった現代に生きる私たちは、自分がこの世で集めてきたものを一枚一枚剥がしていくことで存在の根本にある本当の姿が見えてくるという視点を成り立たせなければなりません。人間の愚者の自覚について、「愚者になる」と「愚者である」とは同義ではありません。愚者になるとは、人間に本来的な有限性の自覚を実存的にしかも普遍妥当的問題として知識を媒介として把握することであり、その意味で形而上学の根本問題である」(石田慶和『真宗研究』47巻)といえます。

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