盂蘭盆会にあたり仏師の手記より

 寺院のご本尊は、宗派ごとによって異なっているのをご存知でしょうか。例えば、真言宗では大日如来、天台宗では阿弥陀如来、浄土宗では阿弥陀如来、曹洞宗では釈迦牟尼仏、臨済宗では釈迦牟尼仏、日蓮宗では大曼茶羅、浄土真宗では阿弥陀如来です。覺正寺念佛堂は浄土真宗の寺院ですので、ご本尊は当然ながら阿弥陀さま阿弥陀如来立像一仏です。なぜなら救いはすべて阿弥陀如来立像が衆生の苦悩を直ちに救うため自ら出迎えてくれようとする慈悲のこころがあるからです。阿弥陀様は、すべての生きとし生きるものをすべてお救いくださる仏さまで限りない命、限りない光として何ものにも障げられない無限にはたらいてくださる仏さまなのです。いうまでもなく浄土真宗の教えは、「阿弥陀さまの本願を信じ、念仏申せば仏となる」というものです。

 

  ところで、こうした阿弥陀様像をお作りになるのが仏師です。「仏を作って魂を入れず」という諺がありますが、先頃、当寺では新しく阿弥陀如来を安置いたしました。現代の名工・京仏師の作によるものなのですが知り合いから是非とも弊寺へと勧められ、お迎えするに至ったのですが、さすが現代の名工・京仏師の作によるものだけあり、まさに拙寺に降臨してきたごとし、魂が既に入りこんでいる体を成していました。慌てて仏師の経歴や手記、ホームページ等で検索したところ次のような手記に出会いました。『仏像彫刻を続けられてきたのは、さまざまな人との繋がりと支えがあったから、この齢になって、過去があり、現在があって、未来があると気づきました』とあらゆる縁をありがたく受けとめ、これまでの出会いにつよい感謝を述べられたものでした。筆よりも鑿を持つ方が好きだと仰られる仏師の先述の言葉は、拙寺の阿弥陀如来像をあらためて見るに、一削一削の真摯な鑿の動きがつたわり、魂がのり移ってってくる思いに駆られました。また、このよう名工の作品に古くから縁を持たれてきている知り合いの眼力へはこころより敬意をはらうばかりでした。

 

   とかく今日、❝人生の生産性❞なぞという言葉がもてはやかされ、人生の生産性は、分子に世の中に貢献できたこと、分母に自分が得たことで考えると、学びは分母に入ると強調されているようですが現代の名工・京仏師にはたして通用されるのでしょうか。

 

  8月13日は、盂蘭盆会(うらぼんえ)。盂蘭盆会は、仏説盂蘭盆経というお経に由来します。浄土真宗は、命終わるとき、迷いの世界であるこの娑婆から、さとりの世界であるお浄土へ往き生まれて仏さまと成り、再び迷いの世(娑婆)に還り来て、私たちを照らし導くためにつねにはたらきかけてくださっているという教えです。それゆえに、浄土真宗ではお盆に故人の霊魂が戻って、そのお迎えをするなどの俗説を一切説きません。しかしながら、盂蘭盆会をご縁に、阿弥陀さまのお話を聞かせていただきながらお浄土を想うとともに、そのお浄土で仏となられた故人を想う、そのような大切なご縁になればよいと思います。合掌

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