人はなぜ悩み苦しむのかとの問いに対して返ってくる回答は十人十色です。みな誰もが、他者には解らない憂苦を抱えて生きています。それゆえに、多くの人がなにかにすがり、求めて生きています。そうした拠りどころの一つとして宗教があることは世界中に知られています。
いうまでもなく宗教とは、有史以来、国・社会・文化・言語が異なっていても存在し続けてきたもので、宗教行事や儀礼の多くは国の文化を豊かにし、生きていくための知識と智慧の宝庫であり道徳の源泉となって公共の福祉を担ってきた人間の精神的な支柱であり豊かな社会形成に貢献してきているものです。とりわけ日本人の多くが信仰しているとされる仏教の根底にある精神は「仏の大慈悲心」である御心を学ぶことです。
慈とはすべてのものへ愛欲と憎悪を超えた、まこと平安を与えようと願う心であり、悲とは、すべての者の痛みをともに痛む、痛みの共感を意味します。しかしながら、わたくしたちを取り巻く現実は、仏の慈悲の世界と真反対の在り方を呈しています。自己中心すなはち己に都合がいいか、邪魔になるか、善悪の判断ですらこうした考えに基づき 正義の名において実践されたり激しい憎悪、はてしない抗争、抹殺、殺戮などへとつながっています。それゆえに、自分の愚かさに気づかせていただき怨親平等をもたらす仏意にかなった生き方を学ぼうとすることが大切だとされているのです。
さらに、今日わたしたちが生きる社会は情報過多、常時SNSでつながっているため、明らかに疲弊しています。加えて生成AIの登場により、私たちの働き方や生き方も大きく変わろうとしています。そんな、人類が初めて経験するような変化の激しい時代だからこそ、2500年間脈々と続いてきた普遍の真理、禅の教えや仏教哲学に、国内外のリーダーの関心が高まっているのではないでしょうか。
科学的アプローチであるマインドフルネスの知識に加え、つねに孤独や葛藤と闘うリーダーの皆さんが2500年間脈々と続いてきた普遍の真理、禅の教えや仏教哲学にで得た気づきを、職場や生活に、活かすことこそが激動する社会のなかの様々な多くの問題や苦しみが生まれます。こうした問題や苦しみに対してより良い解決方法を探す手助けの一つとして仏教を学ぶことにあるのではないでしょうか。
仏教では、「自利自他」という言葉がよく取り上げられます。京セラの稲盛和夫氏をはじめ多くの経営者もそれを生かしていることは周知のとおりです。自利とは自分の幸せ、利他とは他人を幸にすること、いうならば他人を幸せにするままが自分の幸になることで自利のままが利他になる。利他のままが自利になる、これが大乗の菩薩道なのです。仏教の本を一度でもお読みになられたかたはお気づきかもしれませんがわたくしたちに正解を示してはおりません。読めば読むほどに仏教が分からなくなり混乱させるものも数多くあるようです。お釈迦様が説かれた七千余巻の一切経は読み手によって因果道理を異なる理解をしても不思議ではありません。
なお、他者への癒しの力とは、経験に基づく共感と理解力、洞察力は、他者の 感情や状況に対して深い理解を生みます。モチベーションと使命感は苦難を乗り越えることができるばかりか他者に向けた強い動機付けが形成されます。経験的実践的な知識やスキルは理論的な知識と結びつくことによって効果的となります。自らの失敗や回復は他者の希望すなはち問題克服の可能性を見出すことができます。他者へかかわることによって自己認識と自己発展へつながります。つまり他者へ教えることによって自らも学び成長へとつながるのです。
最後に、宗教社会学者の櫻井義秀氏(北海道大学)が実施したアンケート調査結果からみると、「現在の私があるのは先祖のおかげであると思いますか」という質問に対し、「そう思わない」「あまり思わない」という人の幸福感というのはあまり高くありません。「ややそう思う」「そう思う」と答えた人の幸福感というのは高くなっています。ここで、先祖を拝んだから、しあわせ感がたかくなっているというのは宗教的説明としては理解できます。しかしながら社会学的説明、すなはち、先祖との関係で自分を捉えるということは、いわば、自分は孤立していないということの証です。自分がいまここにいるのは、他の人との関係の中にいるんだということを、いわば先祖を拝んだり、墓参りをしたりして確認することによって、孤立感が潜在的に弱められていると考えてみてはいかがでしょうか。今年の彼岸には、迷いの世界と浄土の世界の先祖や故人をおもい感謝されてみてください。 合掌